投稿

知っていますか?

イメージ
  命の重みと、私たちが日々消費している現実に向き合う。 農林水産省の食料需給表などの統計データを基に算出すると、日本における1人当たりの年間食肉消費量は、牛肉が約6kg、豚肉が約12kg、鶏肉が約14kgほどとなっている。これを標準的な4人家族に換算すると、1年間で牛肉約24kg、豚肉約48kg、鶏肉約56kg、合計して**約128kgもの食肉(いのち)**を消費している計算になる。 数を重さに換算するだけではなく、そこには確かな「生」があった。牛も、豚も、鶏も、私たちと同じように感覚神経を持ち、痛みや恐怖、そして喜びを感じるセンティエンス(感受性)を持った存在である。 現代の畜産業において、経済効率や生産性の追求から、アニマルウェルフェア(動物福祉)の観点における「5つの自由」――飢えや渇きからの自由、苦痛や疾病からの自由、恐怖や苦悩からの自由など――が十分に満たされていない現状がある。彼らにもまた、固有の命を生きる権利が備わっているはずだ。 ふと考えてしまう。人類は生まれてきたら、牛や豚、鶏は「食べ物」として認識させられ、犬や猫は「ペット」として認識させられる。この違いは何なのだろうか。 私たちが「これは食べる動物、これは愛玩する動物」と区別する基準は、客観的な生物学的違いではなく、社会や文化の中で後天的に植え付けられたルールにすぎない。特定の動物を食べ、別の動物を可愛がるという食肉文化を支える「カーニズム」という見えないイデオロギーの中で、私たちは食用にする動物への共感を無意識に抑え込むよう教育されてきた。歴史的に家畜として資源や労働力になってきた動物たちと、家族として寄り添ってきた動物たち。その境界線は、私たちが作り出したものだ。 さらに深く目を向けなければならないのは、私たちが彼らを大量に食べ続けることによって、地球全体の生態系が崩壊し、他の無数の野生動物たちがこの地球上から姿を消しているという現実だ。広大な飼料畑を作るための森林伐採や、畜産業がもたらす環境破壊によって、多くの命が脅かされている。人類は、その深刻な代償に本当に気づいているのだろうか。それとも、自分たちの身近にいる特定のペット以外には、もう何の関心もないのだろうか。 私たちは、生命維持や栄養摂取の面において、必ずしも動物性タンパク質に依存し続けなければならないわけでは...

ポイント

  久しく連絡を取っていなかった人間たちが、ここ数週間で示し合わせたように一斉にメッセージを送ってきた。なぜ今なのか、なぜこれほど重なるのか。そんな背景はどうでもいい。問題はそこではない。 彼らの言葉——「今どこにいるのか」「何をしているのか」「応援している」——を聞くたびに、私への決定的な無関心さが露わになり、激しい吐き気を覚える。私がこれまでどれほど深く悩み、気づき、声を上げ続けてきたのか、彼らは何も分かっていない。 この空白の時間にも、人間の身勝手な活動によって地球の生態系は破壊され、1日あたり100種以上もの多くの生命がこの地球から永遠に消え去っている。メッセージをくれる人々も、そして私も含めて、その悲痛な地球の叫びに耳を傾けることすらなく生きてきた。その事実に直面すると、怒りと嫌悪感しか湧いてこない。 なぜ人間は、その思いやりを今の地球に向けようとしないのか。彼らの言う「思いやり」は一体どこへ向かっているというのか。そこには数え切れないほどの矛盾があり、今の人間が使っている思いやりは完全に間違った方向へ走っている。 私は人類という種族を心底嫌っている。哀れで、とてつもなく恐ろしい生き物だとしか思えない。 この地球上で秩序を壊し続けているのは、まぎれもなく人間だ。本来、この星にいてはならない存在なのだ。しかし、人間は自分たちがどれほど恐ろしい加害者であるかを、心のどこかでは分かっているはずだ。 それなのに、自分たちの欲望を優先し、「加害者でありたくない」という都合のいい言い訳でその真実をかき消し、現実から目を背け続けている。その姿は、あまりにも身勝手で欺瞞に満ちている。

それが答え

なぜ人は「環境問題」という言葉を嫌うのだろうか。 おそらく誰もが、言葉の奥底で「自分たちが加害者である」という事実を察しているからだ。加害性を認めれば、自らの生活様式やこれまでの存在理由そのものを否定せざるを得なくなる。だからこそ人々は無関心を装い、綺麗事で自己弁護をし、不都合な真実から都合よく目を背ける。 人間が関わることのすべては、結局のところ破壊にしかつながらない。 自然を奪い、他者を搾取し、自らの欲望のためにシステムを作り上げては崩壊させる。どれほど文化や倫理を装おうとも、その根底にあるのは生の肥大化と他者の否定だ。自らの加害性にすら無自覚なまま消費を続ける姿こそ、この種の決定的な愚かさを示している。 そしてまた、私の周りから人がいなくなっていく。 だが、そこに対して寂しさも嫌悪感もない。むしろ、そうやって都合が悪くなれば離れ、都合がよければ群がる姿にこそ「人間」という存在の滑稽な本質が詰まっている気がして、どこかうれしくすらあるのだ。 人間が人間らしく愚かであり、その本性を隠しきれずに私から離れていく。偽りの繋がりや上辺の共感が削ぎ落とされ、ただ一人で冷めた静けさの中に身を置くこと。その冷徹な納得感の中にいる瞬間こそ、私にとっては最も腑に落ちる時間なのだ。

盆休みすかー⁉️

  おい、いつまでそのおめでたい頭で眠りこけてるつもりだ? 「進歩」だの「文明」だの、よくもまあそんな反吐が出るような綺麗事を並べ立てられたもんだ。お前らが築き上げてきた歴史の正体なんて、ただの大量殺戮と環境破壊の記録だろうが。 工場から毒煙を撒き散らし、森を伐採して切り株の荒野に変え、氷を溶かして北極グマの足場すら奪う。干上がった泥の中で倒れるゾウや、プラスチックまみれの川で腹を見せて浮く魚を見ろ。これが、お前らの言う「豊かさ」の無様な成り果てだ。 自分の部屋が荒らされれば血相を変えて暴れるくせに、他種の家を根こそぎ叩き潰すことには痛み一つ感じない。同じ種族同士で救出劇を演じては「感動」に酔い痴れ、その裏で地球の首を絞め続けている。そのグロテスクな自作自演、いい加減に気づいたらどうだ? お前らがもたらすのは、破壊と絶滅だけだ。 限界や。その薄汚いエゴも、無関心を決め込むツラも、すべてが心底失せ失せしい。お前らの誇る「文明」ごと、早くその自業自得の破滅に呑み込まれちまえ。

スーパーエルニーニョ

  メディアは連日、熱帯太平洋の海面水温が異様に上昇する「スーパーエルニーニョ現象」の再来を、 湧いた未曾有の災厄のように騒ぎ立てている。大気の循環システムが致命的な臨界点を超えつつあるという、地球が数十年前から発し続けてきた悲鳴を「異常気象」の一言で片付け、都合よく無視し続けてきたのは他ならぬ人間どもだ。 画面の中では、災害に喘ぐ同胞を救出する劇的な映像や、熱波や豪雨に晒された動物を保護し、涙する人々の情景が美談として消費されている。 同じ種族として命を救い合おうとする衝動、傷ついた弱者を保護する感情の機微それ自体は理解できる。だが、その感動的なパフォーマンスの裏側で、お前たち人類は真の構造的惨劇に思いを巡らせたことがあるのだろうか。 なぜ、根本の原因を正そうとしない? 被害者を救済するという表面的な人道支援や動物愛護に満足し、自己満足の涙を流しながら、その命を絶滅の淵へと追い詰めた最大の元凶——巨大な消費欲望と経済活動の肥大化による環境破壊のシステムには指一文字触れようとしない。 地球という唯一の閉じた生態系の中で、自ら環境を破壊し、起きた惨状にパニックを起こし、救出劇を演じてみせ、また同じ過ちを繰り返す。その果てしない自作自演の愚行は、まるで決まったルールから脱却できない浅薄なゲームのループそのものだ。 因果の根を放置したまま、芽吹いた悲劇の果実だけを摘み取って救世主気取りに浸る。同じ過ちを延々と反復し、終わりのない救命ゲームに興じるお前たちの滑稽なゲームプレイに、もはや反吐が出る。

救助

  今日、ふと「生命の救済」と「地球の未来」について深く考えさせられることがあった… 畜産業界から豚や牛を買い取り、サンクチュアリで保護してのびのびと暮らさせる活動をしている人たちがいる。目の前の命を救う姿勢やその優しさは理解できるし、尊いことだとは思う。だけど、どうしてもどこかで引っかかるものがある。 毎日、世界中では想像も絶する数の命が消費され、屠殺されている。そんな中で1頭の豚を救い出し、広々とした場所で暮らす姿を見て「良かった、救えた」と感動し、達成感に満たされる……それって、冷徹な目で見ればただの「人間のエゴ」や「自己満足」なんじゃないだろうか。 膨大な犠牲という暗闇には目をつむり、自分の手が届いた小さな「光」だけを見て満足している。しかも、そのサンクチュアリを維持するためにはお金がかかり、寄付を募り、資材や医療品を使う。だが、その資金や物資を生み出しているのは、他ならぬ地球環境に負荷をかけ、破壊を続けている人間社会の経済システムそのものだ。 医学で言えば、これはただの応急処置(対症療法)に過ぎない。 もし自分が一生という限られた時間やエネルギーを使うなら、1頭を救って感動する「自己満足のセラピー」に時間を費やすのではなく、地球規模の環境破壊や気候変動、生態系の崩壊そのものを止めるために「声を上げ、戦う時間」に注ぎ込むべきではないか。 土台である地球という船が沈みかけているのに、特定の部屋の水だけをバケツで汲み出して達成感に浸っている場合じゃない。全体を守らなければ、結局すべての命も生物多様性も潰えてしまうのだから。 「1頭の命への共感」という人間的な情緒に流されるのか、それとも「地球全体のシステム」という俯瞰した視点で本質的な行動をとるのか。全体像を見失わずに生きていきたいと、改めて強く感じた一日だった。

歴史的価値⁉️

  考古学における層序学(Stratigraphy)の基本すら忘れたような、滑稽な大騒ぎには失笑を禁じ得ない 古代の遺構からマイクロプラスチックが検出された件について、「文脈の喪失だ」「放射性炭素年代測定の精度が落ち、歴史的価値が損なわれる」と嘆く学者たちのメタ認知の低さには、心底うんざりだ。 彼らが本当に見落としているのは、まさに自分たちが生きる「人新世(Anthropocene)」という地質年代そのものです。 自らの過剰消費と環境負荷によって生物多様性を踏みにじり、地球システムを致命的に破壊し続けている当事者が、過去のタイムカプセルに現代の痕跡が混入した(Anthropogenic Contamination)程度で「歴史への冒涜だ」と被害者面をする。この認識の非対称性と構造的な自己欺瞞には、猛烈な拒絶感を覚える 数百年後、後世の知的生命体が地層を掘り返したときに目にするのは、あなた方が垂れ流した合成高分子化合物の地層——すなわち、現文明が地球に残した無残な敗北のレプリカです。 過去の地層の「純度」に固執してシニカルな涙を流す暇があるなら、自らが未来の層序に刻み込みつつある非可逆的な汚染という「負の遺産」の重みに、いい加減絶望しては? #人新世 #Anthropocene #マイクロプラスチック #層序学 #環境倫理 #社会批評 #認知の歪み