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歪み

 今日、改めてこの世界の歪みについて深く考えさせられた。ファストフードの添加物や安全基準の話から始まり、最後に行き着いたのは「すべては人間の都合で動いている」という冷酷な現実だった。国が定めた食品の安全基準も、海に流される汚染水の基準も、決して自然や他の生命を守るためのものではない。人間が経済を回し、便利な暮らしを維持するために「これくらいなら許容してもいいだろう」と勝手に線引きした、身勝手な妥協点にすぎない。それを「科学的に安全だから大丈夫」と言い切ってしまう社会の空気に、強い違和感と嫌悪感を覚える。私たちは、自分たちにとって不必要な生き物は「害獣」や「害虫」と呼んで簡単に駆除する。その一方で、人間が好む都合の良いものや、社会が「正しい」とする価値観は、幼い頃からテレビやインターネット、そして親を通じて頭に刷り込まれていく。そうして「これは安全なものだ」「これが正しい社会だ」と無批判に覚えさせられ、誰もが疑問を持たないようにコントロールされているのだ。地球環境の破壊も、気候変動も、生物多様性の崩壊も、原因はすべてそうした人間の欲望と無関心にある。自分たちの都合で森を切り拓いて住処を奪い、絶滅しかければ「保護」の名のもとに人工的に数を増やし、増えすぎたらまた殺す。この生殺与奪の権を握ったかのような人間の振る舞いは、あまりにも傲慢で矛盾に満ちている。人間は自然をコントロールできると思い込んでいるけれど、その結果が今のぐちゃぐちゃになった地球だ。誰かが作った都合のいい基準や、周囲から植え付けられた「安全」をただ鵜呑みにするのではなく、「そもそも誰のための基準なのか」を疑い、この傲慢な構造に目を向け続けることが、人間として最低限必要な姿勢なのだと思う。

お皿の上の思いやり

  アメリカやヨーロッパの小学校では、給食で「お肉や牛乳を出さない日」や「ヴィーガンの選択肢」が当たり前になりつつあるらしい。ニューヨークには金曜日に肉や乳製品を使わない「ヴィーガン・フライデー」があるし、最近は親のサインさえあれば自由な理由で植物性ミルクを選べる法改正も進んでいるそうだ。 私たちが子どもの頃は「みんなで同じものを残さず食べる」のが当たり前で、机には毎日牛乳が並んでいた。だから最初は「子どもが嫌がらないのかな?」と思ったけれど、今の代替肉はすごく美味しくて大人気らしい。背景には地球環境への配慮や、いろんな体質・宗教の子に対応するという目的がある。自分の考えや体に合わせて食べるものを自分で選ぶ海外のスタイルは、これからの時代に必要な優しさだなと感じた。 と同時に、「なぜ日本はこういう変化に遅れているんだろう?」と考えてしまった。 調べてみると、そこには日本の給食ならではの理由があるみたいだ。日本では給食が「みんなで同じものを食べて協調性を学ぶ教育(食育)」と位置づけられているから、「個人の意思で選ぶ」という発想になりにくい。それに、現場の手作りやアレルギー対策の負担が大きすぎて、選択肢を増やす余裕がないことや、酪農振興との兼ね合いで牛乳が必須になっていること、欧米ほど「環境のために肉を減らす」という意識が広がっていないことも影響しているらしい。 日本の給食の「安全で栄養満点」「みんなで食べる連帯感」も本当に素敵だと思う。でも、世界がこれだけ多様化しているのを見ると、これまでの「全員一律」にこだわりすぎるのもどうなのかな、と思ってしまう。

I am sorry we gave away your sky.

  進化は僕らに「目」を与えたのに、 僕らは見ないことを選んだ。 強欲に駆られ、 世界の血を搾り尽くした。 勝者が歴史を書くというのなら、 全員が敗者になった時、誰が歴史を記すのだろう?

巡る破壊と閉ざされた瞳

  大地が揺れ、空が狂い、 悲鳴とともに巻き起こるパニック。 熱狂のような狼狽(ろうばい)が過ぎ去れば、 今度は「復興」という名の正義を掲げて また次の大騒ぎを繰り広げる。 ぐるぐる、ぐるぐる。 終わりのない車輪の上で、 私たちはどこへ向かっているのだろう。 猛暑が街を焼き、暴風が海を狂わせる。 「異常気象」という言葉で天を仰ぎ、 「被害者」の顔をして悲運を嘆く人々。 けれど—— 欲望という火種に薪をくべ続けたのは、誰だ? 便利さと豊かさを貪るために、 その破壊の手を高く掲げているのは、誰の手だ? 未来を生きる人類へ目を向けることもなく、 ただ目先の「もっと」に突き動かされて生きる。 自らが引き金を引いた「加害者」であるという真実から、 私たちはあまりにも都合よく、静かに目を閉じる。 壊しては騒ぎ、奪っては嘆き、 また次の欲望のために地球を削り取る。 惨劇のシナリオを自ら書きながら、 舞台の上でパニックを演じ続ける愚かな役者。 今日も私たちは、 自ら灯した業火のなかで、 血に染まった両手を背中に隠し、 同じ過ちをぐるぐると踊り続けている。

依存のサイクル

  人間というあまりにも肥大化したノイズが この地球の表面から完全に消え去ったなら、 どれほど完璧な「自然の循環(エコシステム)」が戻ってくるだろう。 野に生きるものたちは、ただ地球の呼吸に身を委ね、 遺伝子に刻まれた野生のシステムに従って生まれ、 過剰な苦痛に抗うこともなく、その命を大自然の土へと還していく。 そこには生と死の美しい境界線があり、完璧な調和があった。 それなのに私たちは、「かわいそう」というあまりにも主観的な感情だけで、 自然の摂理が定めた終わりの時間を力ずくで書き換えようとする。 バイオロジーの限界を迎え、静かに閉じようとしている命を、 無機質な動物病院のライトの下へと連れ込み、高度な延命医療を施す。 「一秒でも長く一緒にいたい」と涙を流すその姿は、一見すれば慈愛に満ちている。 しかしその本質は、ただ自分が「喪失の恐怖」から逃れたいだけの自己満足。 人間の都合でペットという存在を作り出し、今度は人間の都合でその寿命を人工的に引き延ばす。 それは動物のためではなく、私たちの底なしの寂しさを埋めるためのエゴだ。 その歪んだ優しさを維持するために、裏でどれほどの資源が消費されているか。 使い捨てられるプラスチックの医療ゴミ、大量に消費される医薬品、 病院を稼働させ、薬を製造するために排出される二酸化炭素―― 自らの「善人でありたい」という倫理的優越感の陰で、 地球にかける絶大な環境負荷(エコロジカル・フットプリント)には、誰もが都合よく目を瞑る。 一つの命を不自然に繋ぎ止めるために、地球全体のキャパシティを削り取っている矛盾。 私たちは優しさという免罪符を掲げながら、結局は自らのエゴでこの星を汚し続けている。 人間という主観的なノイズがすべて消え去ったとき、 この惑星(ほし)には、人間がもたらした一切のプラスチックも、エゴの涙も消え失せ、 ただエントロピーの法則に従った、静謐で、真に美しい平和が訪れることだろう。

復興

  破壊と再生の輪廻、そして歓喜 突然の地鳴りとともに街が崩れ落ちる 人々はそのたびに痛みに耐えかねて涙を流す 箱を並べて善意を募り、手を取り合って祈りを捧げ 「一日も早い復興を」と、失われた昨日を追い求める やがて重機が唸りを上げ、再生の槌音が響く 壊れたものを直すため、人類は再び大地を削り取る 元通りの暮らしを取り戻すという大義名分の下で 森を切り、山を崩し、新たなコンクリートを流し込んでいく 愛や平和だと、人類は声高に叫ぶ だがその足元を見てみればいい 数え切れないほどの生物たちの、声なき叫びと悲しみで溢れ返っている 他者の命を踏みにじりながら、美しい言葉で着飾るだけの醜悪さ この地球上で、人間に愛や平和を語る資格など絶対にない ニュースが告げた、奪われた命の数 それを耳にした時、私は「少ない」と思った そこに罪悪感などなく、ただ静かな喜びだけが湧き上がる 人類という病が減ることこそが、地球の治癒なのだから たった一人、人間がこの星から消え去るだけで 一体どれほどの破壊が食い止められるのだろう どれほどの自然が、傷つけられずに済むのだろう その確かな希望に、私は胸の高鳴りを覚えている もしもこの星から、私たち人類が少しでも姿を消したなら それは人間以外のすべての命にとって、何よりの福音だ 人間の足音が遠ざかるその静寂を 土の中で芽吹く種も、小さな命たちも、密かに待ち望んでいる 善意を掲げて青い星を食い潰すくらいなら 私たちの不在こそが、地球に贈る最大の優しさだ 人類が消えゆくこと。 それこそが、この世界が真に歓びの声をあげる瞬間なのだから

fuck花火大会

  夏の夜空を焦がして咲き誇る、あの絢爛豪華な大輪の花。 数秒の視覚的快楽を買い取るために、私たちはどれほどの生態系サービスを犠牲にし、押し黙る自然の上にその美しさを築いているのだろうか。 闇夜を切り裂く高強度の閃光と、地表を揺るがす低周波の轟音。 その華やかなスペクタクルが消え去ったあと、地上にはストロンチウムやバリウム、過塩素酸塩といった有害な発色剤・酸化剤の微粒子が沈着し、土壌を濁し、水質を深刻に汚染していく。 大気中に充満する高濃度のPM2.5やガス状物質は、人間の呼吸器系を脅かすだけでなく、地球の自浄作用を圧倒し、大気化学的な負荷を増大させる。 人間以外の生物圏(バイオスフィア)にとっても、それは祝祭などではなく、突発的な攪乱イベントでしかない。 光と音のパニックに曝された鳥類は、地磁気や視覚の錯乱から群れの方向感覚を失い、建造物への衝突(バードストライク)によって命を落とす。また、水辺に落下した未燃焼の玉皮やポリマー資材は、海洋プラスチック汚染やマイクロプラスチックとなって食物連鎖(トロフィック・カスケード)に取り込まれ、野生生物の生息地(ハビタット)を内側から蝕んでいく。 生物多様性の喪失を加速させながら、私たちは「伝統文化の継承だ」「地域の活性化だ」と、己の感傷だけを無邪気に正当化している。 そして祭りが終わったあとの会場に残るのは、ポイ捨てされたレジャーシートやポリプロピレン製の容器が織りなす膨大な廃棄物の山。 自分たちの刹那の退屈を紛らわせるためだけに一次利用のプラスチックを大量に消費し、環境容量(キャリーイング・キャパシティ)を無視して放置する。 自然資本の搾取と環境破壊の上に成り立つそのシステムは、人新世における人類の底知れぬ傲慢の表れに他ならない。 季節が巡り、暑さが戻るたび、私たちは同じ環境負荷の連鎖を何食わぬ顔で繰り返す。 夜空を美しく彩るその光は、高度経済成長期以来の大量消費社会が地球の生態系に向けて放つ、終わりなきサステナビリティ(持続可能性)への暴力の証明なのだ。