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私の目から映し出す地球

  この地球上で生きてきて、気づくのがあまりにも遅かった。 けれど今、ようやくすべてが一本の線につながったような気がする。 人類という生命体は、あまりにも哀れで、あまりにも野蛮だ。 自らを「知的生命体」と呼びながら、生態系の一員であることを忘れ、他の生命を管理し、利用し、排除し、地球そのものを自分たちの都合に合わせて改変していく。 生態系の中で本来ならば相互依存によって成り立っているはずの生命圏を、人類はまるで自分たちだけの所有物であるかのように扱っている。 そして、その速度が異常なほど速い。 特にここ数百年。 産業革命以降、人類はエネルギー消費と経済成長を加速度的に拡大させ、土地利用を変え、森林を失わせ、大気組成まで変化させた。 その結果として、地球上では生物多様性の喪失、生態系の分断、絶滅速度の上昇、気候変動、そして生態系サービスの劣化が同時進行している。 それでも人類は止まらない。 まるで何かに取り憑かれたように、成長を求め続ける。 もっと便利に。 もっと豊かに。 もっと速く。 もっと多く。 その根底にあるのは、経済合理性、消費欲求、社会的比較、そして際限のない欲望なのだろうか。 不思議なのは、これほど巨大な環境負荷を生み出しているにもかかわらず、多くの人間がそれを「普通の生活」として受け入れていることだ。 それは個人の悪意だけでは説明できない。 むしろ、社会システムそのものが、人間の欲望を増幅する構造になっている。 消費すれば経済が回る。 経済が成長すれば幸福になる。 成長するためには、さらに資源を使う。 そして、その循環の外側にいる無数の生命たちは、ほとんど意思を聞かれることもなく、その代償を支払わされる。 そう考えると、吐き気がすることがある。 人類という生命体が、あまりにも巨大な自己中心性を持っているように見えてしまうからだ。 まるで地球という生命圏を、自分たちの欲望を満たすための巨大な装置だと思っているかのように。 「気づかなければよかった」と思うことはない。 一秒たりとも、そう思ったことはない。 むしろ、気づけば気づくほど、人類そのものに興味が湧いてくる。 なぜ人間はここまで支配したがるのか。 なぜ未来の損失よりも、目の前の利益を優先するのか。 なぜ自分たちの文明を維持するためな...

ゾンビの群れ

  窓の外を横切る夕景は、相変わらず無機質で美しい。地球規模の気候変動がもたらすあらゆる異常現象が、もはや「想定外」という免罪符すら通用しない日常の裂け目として顕在化しているというのに、社会の歯車は寸分違わず狂ったまま回り続けている。ニュースが告げる生態系の崩壊や熱波の記録更新は、画面の向こうのフィクションではなく、確実にこの足元を浸食する現実なのだ。 それなのに、この世界の圧倒的な多数派を占めるのは、底なしの無関心と冷笑主義だった。「周りが何もやってないから、自分は何もやらない」「自分が変わっても世界は変わらない」――そうやって責任を他者に預け、思考の特権を放棄した矮小な言い訳を耳にするたび、激しい怒りと、胸の奥底からこみ上げる吐き気が止まらなくなる。不可逆的な破滅へと向かう斜面で、現状維持にしがみつきながら他者の動向ばかりを気にするそのクソみたいな態度こそが、この惑星を窒息させている真の病巣に他ならない。 さらに残酷なのは、私に残されたわずかな友だちさえもが、このどうしようもない世界と地続きの場所に生きているという現実だ。どれほど言葉を尽くしても通じ合えない絶望感と、同じ空気を吸い、同じ泥舟に乗っているかのような息苦しさに耐え切れず、もう彼らとつながっていることすら重荷で、すべてを断ち切りたくなってしまう。この腐りきった構造の中で、つながり続けること自体が泥沼のように思えてならない。 個人の営為など、押し寄せる構造的な巨大な潮流の前では砂粒ほどの意味すらないのかもしれない。私がライフスタイルを改め、声を上げようとも、巨大利権や構造的な怠惰の壁はびくともしないだろう。しかし、だからといってこの腐りきった諦めの同調圧力に屈し、思考を停止したゾンビの群れに加わることだけは、私の尊厳が許さない。地球そのものが人間の存在を自浄作用のように振り払おうとしている気配を感じる今日この頃、この猛烈な焦燥と深い孤立感を抱えながら歩み続けることの重みだけが、奇妙なほど鮮烈に、今日の輪郭を形作っている。

各地で起こる

  世界中で猛威を振るう大雨や台風、容赦ない熱波のニュースを見た。 画面の向こうで繰り返される異常気象の映像に、胸が重くなる。 結局のところ、これらはすべて自分たちが招いた結果だというのに。 根本的なあり方を変えようともせず、どうすればこの暑さや災害から「自分が快適に過ごせるか」ということばかりに目が向いている。便利な生活の代償として地球をすり減らしているという現実から、巧妙に目を背け続けているようにしか見えない。 人間とは、本当に業の深い、困った生命体だ。 このままでは、ただ自然を食い潰していくだけの存在になってしまうのではないかという焦りと、どうしようもない無力感が胸をよぎる。表面的な対策だけをいくら重ねても、根本を直そうとしない限り、本当の意味で自然との共存なんて訪れない気がしてならない。 このもどかしさを、ただやり過ごすだけではなく、何か形にして残していかなければいけない。

別の軌道

  今日もまた、胸が押しつぶされそうな思いを抱えながら一日を終える。 毎日、どれだけたくさんの小さな生物を踏まないように足元を避けて歩いても、自分が生きているその足音だけで、この世界を傷つけているような気がしてならない。生活から出るたくさんの破壊物質をどれだけ出さないように頑張ったとしても、スーパーの棚に並ぶもの、日々の営みのすべてが、どこかの命を犠牲にして成り立っているという現実から逃れることはできない。 自分が人間だと思う時はほんとに情けない。欲望のままに地球を食い荒らす同族と同じ血が流れていること、その加害の連鎖の中に組み込まれていることが、どうしようもなく恥ずかしく、吐き気がするほど嫌になる。 それでも、ここで立ち止まるわけにはいかない。 俺は前進するのみだ。ただ嘆くだけの傍観者にはならない。あんなふうに無関心に生きる、同じクソみたいな人間たちと同じ線路を歩く気など毛頭ない。彼らとは違う軌道を、自分の意志で、失われていく命の痛みとともに歩み続けてやる。

知っていますか?

イメージ
  命の重みと、私たちが日々消費している現実に向き合う。 農林水産省の食料需給表などの統計データを基に算出すると、日本における1人当たりの年間食肉消費量は、牛肉が約6kg、豚肉が約12kg、鶏肉が約14kgほどとなっている。これを標準的な4人家族に換算すると、1年間で牛肉約24kg、豚肉約48kg、鶏肉約56kg、合計して**約128kgもの食肉(いのち)**を消費している計算になる。 数を重さに換算するだけではなく、そこには確かな「生」があった。牛も、豚も、鶏も、私たちと同じように感覚神経を持ち、痛みや恐怖、そして喜びを感じるセンティエンス(感受性)を持った存在である。 現代の畜産業において、経済効率や生産性の追求から、アニマルウェルフェア(動物福祉)の観点における「5つの自由」――飢えや渇きからの自由、苦痛や疾病からの自由、恐怖や苦悩からの自由など――が十分に満たされていない現状がある。彼らにもまた、固有の命を生きる権利が備わっているはずだ。 ふと考えてしまう。人類は生まれてきたら、牛や豚、鶏は「食べ物」として認識させられ、犬や猫は「ペット」として認識させられる。この違いは何なのだろうか。 私たちが「これは食べる動物、これは愛玩する動物」と区別する基準は、客観的な生物学的違いではなく、社会や文化の中で後天的に植え付けられたルールにすぎない。特定の動物を食べ、別の動物を可愛がるという食肉文化を支える「カーニズム」という見えないイデオロギーの中で、私たちは食用にする動物への共感を無意識に抑え込むよう教育されてきた。歴史的に家畜として資源や労働力になってきた動物たちと、家族として寄り添ってきた動物たち。その境界線は、私たちが作り出したものだ。 さらに深く目を向けなければならないのは、私たちが彼らを大量に食べ続けることによって、地球全体の生態系が崩壊し、他の無数の野生動物たちがこの地球上から姿を消しているという現実だ。広大な飼料畑を作るための森林伐採や、畜産業がもたらす環境破壊によって、多くの命が脅かされている。人類は、その深刻な代償に本当に気づいているのだろうか。それとも、自分たちの身近にいる特定のペット以外には、もう何の関心もないのだろうか。 私たちは、生命維持や栄養摂取の面において、必ずしも動物性タンパク質に依存し続けなければならないわけでは...

ポイント

  久しく連絡を取っていなかった人間たちが、ここ数週間で示し合わせたように一斉にメッセージを送ってきた。なぜ今なのか、なぜこれほど重なるのか。そんな背景はどうでもいい。問題はそこではない。 彼らの言葉——「今どこにいるのか」「何をしているのか」「応援している」——を聞くたびに、私への決定的な無関心さが露わになり、激しい吐き気を覚える。私がこれまでどれほど深く悩み、気づき、声を上げ続けてきたのか、彼らは何も分かっていない。 この空白の時間にも、人間の身勝手な活動によって地球の生態系は破壊され、1日あたり100種以上もの多くの生命がこの地球から永遠に消え去っている。メッセージをくれる人々も、そして私も含めて、その悲痛な地球の叫びに耳を傾けることすらなく生きてきた。その事実に直面すると、怒りと嫌悪感しか湧いてこない。 なぜ人間は、その思いやりを今の地球に向けようとしないのか。彼らの言う「思いやり」は一体どこへ向かっているというのか。そこには数え切れないほどの矛盾があり、今の人間が使っている思いやりは完全に間違った方向へ走っている。 私は人類という種族を心底嫌っている。哀れで、とてつもなく恐ろしい生き物だとしか思えない。 この地球上で秩序を壊し続けているのは、まぎれもなく人間だ。本来、この星にいてはならない存在なのだ。しかし、人間は自分たちがどれほど恐ろしい加害者であるかを、心のどこかでは分かっているはずだ。 それなのに、自分たちの欲望を優先し、「加害者でありたくない」という都合のいい言い訳でその真実をかき消し、現実から目を背け続けている。その姿は、あまりにも身勝手で欺瞞に満ちている。

それが答え

なぜ人は「環境問題」という言葉を嫌うのだろうか。 おそらく誰もが、言葉の奥底で「自分たちが加害者である」という事実を察しているからだ。加害性を認めれば、自らの生活様式やこれまでの存在理由そのものを否定せざるを得なくなる。だからこそ人々は無関心を装い、綺麗事で自己弁護をし、不都合な真実から都合よく目を背ける。 人間が関わることのすべては、結局のところ破壊にしかつながらない。 自然を奪い、他者を搾取し、自らの欲望のためにシステムを作り上げては崩壊させる。どれほど文化や倫理を装おうとも、その根底にあるのは生の肥大化と他者の否定だ。自らの加害性にすら無自覚なまま消費を続ける姿こそ、この種の決定的な愚かさを示している。 そしてまた、私の周りから人がいなくなっていく。 だが、そこに対して寂しさも嫌悪感もない。むしろ、そうやって都合が悪くなれば離れ、都合がよければ群がる姿にこそ「人間」という存在の滑稽な本質が詰まっている気がして、どこかうれしくすらあるのだ。 人間が人間らしく愚かであり、その本性を隠しきれずに私から離れていく。偽りの繋がりや上辺の共感が削ぎ落とされ、ただ一人で冷めた静けさの中に身を置くこと。その冷徹な納得感の中にいる瞬間こそ、私にとっては最も腑に落ちる時間なのだ。