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テスト2

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テスト

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吐き気

  自分が彼らと同じ「人類」という生き物であることさえ、毎日のように猛烈に恥ずかしくなってくる。鏡を見れば、彼らと同じように目が二つあり、鼻があり、口があり、手足が生きていて、豊かな感情を宿している。その構造が全く同じだという事実そのものが、今はたまらなくグロテスクに思える。 この同じ種族の生き物たちは、地球上を自分たちの都合の良いように勝手に支配し、あらゆる生態系を踏みにじり、ただ破壊の限りを尽くしている。裏側で無数の命が消えていることなどお構いなしに、目先の欲望のままにすべてを食い潰していく。その「人類」という生命体のあり方そのものが、私は心底から大嫌いだ。 やれやれ、また今日もうんざりするような一日だったよ。地球の裏側では私たちの「便利な日常」と引き換えに無数の命が消えているのに、周りの連中は心理学で言う「範囲不感受性」のせいで遠くの悲惨さには感覚がマヒし、目の前の分かりやすい感傷にだけ群がる。ほんと吐き気がするね。 医学にたとえれば、全身が腐りかけた末期患者がその場しのぎの「対症療法」でごまかし、病の根っこを断つ「根本治療」から必死に目を背けているようなものだ。「防衛機制」で現実逃避し、自分たちこそが環境破壊の「加害者」のくせに、心の奥底では「自分は被害者だ」って汚い免罪符を握りしめている。その認知の歪みがすべての元凶なんだ。 システムを変えることなど本当はできるのに、ちっぽけな欲望がそれを邪魔する。この腐りきった矛盾と、同じ人類であることへの深すぎる嫌悪感をたっぷり味わわされた

お前だぁ‼️

  人類の矛盾 今日、また気候変動について考えていた。 世界では、干ばつによって水場を失い、苦しんでいる人々がいる。 その映像を見て、多くの人が「かわいそうだ」と思う。 もちろん、人間が苦しんでいることは悲しい。 でも、ふと疑問に思う。 なぜ、私たちはいつも人間だけを見ているのだろう。 干ばつで水がなくなるのは、人間だけではない。 野生動物たちも水場を失う。 食べ物を失う。 生きる場所を失う。 氷が溶ければ、そこを生きる動物たちの暮らしも変わる。 海が変われば、そこに生きる無数の命も影響を受ける。 そして、その一つひとつの命には、私たちには想像できないほど長い歴史がある。 何千年、何万年、あるいは何百万年という時間をかけて、命から命へと受け継がれてきた。 それが、たった一度の地球環境の変化によって途切れてしまう。 一つの種が絶滅するということは、 単に「動物が一匹死んだ」という話ではない。 その種が歩んできた長い生命の歴史が、そこで終わるということだ。 それなのに私たちは、人間が苦しんでいる映像を見れば「かわいそう」と言い、涙を流す。 一方で、動物たちが生息地を失い、飢え、渇き、そして静かに消えていくことには、どこか無関心でいられる。 そして映像が終われば、またいつもの快適な生活へ戻っていく。 電気を使い、物を買い、資源を消費し、便利さと豊かさを享受する。 もちろん、一人の人間だけにすべての責任があるわけではない。 社会の仕組みも、産業も、政治も、経済も関係している。 それでも、私たちはその仕組みの中で生きている。 だからこそ、私はこの矛盾に強い違和感を覚える。 人類は、自分たちが快適に暮らすために地球を変えてきた。 そして、その結果として生まれた環境の変化によって人間が苦しむと、 「なんて悲惨なんだ」 「かわいそうだ」 と言う。 でも、その同じ瞬間に、 人間以外の無数の命も苦しんでいる。 声を上げることもできず、 助けを求めることもできず、 ただ静かに生きる場所を失っている。 私は、そこに人類の大きな矛盾を感じる。 そして時々、吐き気がするほどの違和感を覚える。 地球は人間だけのものではない。 私たちが「かわいそう」と画面越しに見ているその世界で、 同じように、いや、それ以上...

私の目から映し出す地球

  この地球上で生きてきて、気づくのがあまりにも遅かった。 けれど今、ようやくすべてが一本の線につながったような気がする。 人類という生命体は、あまりにも哀れで、あまりにも野蛮だ。 自らを「知的生命体」と呼びながら、生態系の一員であることを忘れ、他の生命を管理し、利用し、排除し、地球そのものを自分たちの都合に合わせて改変していく。 生態系の中で本来ならば相互依存によって成り立っているはずの生命圏を、人類はまるで自分たちだけの所有物であるかのように扱っている。 そして、その速度が異常なほど速い。 特にここ数百年。 産業革命以降、人類はエネルギー消費と経済成長を加速度的に拡大させ、土地利用を変え、森林を失わせ、大気組成まで変化させた。 その結果として、地球上では生物多様性の喪失、生態系の分断、絶滅速度の上昇、気候変動、そして生態系サービスの劣化が同時進行している。 それでも人類は止まらない。 まるで何かに取り憑かれたように、成長を求め続ける。 もっと便利に。 もっと豊かに。 もっと速く。 もっと多く。 その根底にあるのは、経済合理性、消費欲求、社会的比較、そして際限のない欲望なのだろうか。 不思議なのは、これほど巨大な環境負荷を生み出しているにもかかわらず、多くの人間がそれを「普通の生活」として受け入れていることだ。 それは個人の悪意だけでは説明できない。 むしろ、社会システムそのものが、人間の欲望を増幅する構造になっている。 消費すれば経済が回る。 経済が成長すれば幸福になる。 成長するためには、さらに資源を使う。 そして、その循環の外側にいる無数の生命たちは、ほとんど意思を聞かれることもなく、その代償を支払わされる。 そう考えると、吐き気がすることがある。 人類という生命体が、あまりにも巨大な自己中心性を持っているように見えてしまうからだ。 まるで地球という生命圏を、自分たちの欲望を満たすための巨大な装置だと思っているかのように。 「気づかなければよかった」と思うことはない。 一秒たりとも、そう思ったことはない。 むしろ、気づけば気づくほど、人類そのものに興味が湧いてくる。 なぜ人間はここまで支配したがるのか。 なぜ未来の損失よりも、目の前の利益を優先するのか。 なぜ自分たちの文明を維持するためな...

ゾンビの群れ

  窓の外を横切る夕景は、相変わらず無機質で美しい。地球規模の気候変動がもたらすあらゆる異常現象が、もはや「想定外」という免罪符すら通用しない日常の裂け目として顕在化しているというのに、社会の歯車は寸分違わず狂ったまま回り続けている。ニュースが告げる生態系の崩壊や熱波の記録更新は、画面の向こうのフィクションではなく、確実にこの足元を浸食する現実なのだ。 それなのに、この世界の圧倒的な多数派を占めるのは、底なしの無関心と冷笑主義だった。「周りが何もやってないから、自分は何もやらない」「自分が変わっても世界は変わらない」――そうやって責任を他者に預け、思考の特権を放棄した矮小な言い訳を耳にするたび、激しい怒りと、胸の奥底からこみ上げる吐き気が止まらなくなる。不可逆的な破滅へと向かう斜面で、現状維持にしがみつきながら他者の動向ばかりを気にするそのクソみたいな態度こそが、この惑星を窒息させている真の病巣に他ならない。 さらに残酷なのは、私に残されたわずかな友だちさえもが、このどうしようもない世界と地続きの場所に生きているという現実だ。どれほど言葉を尽くしても通じ合えない絶望感と、同じ空気を吸い、同じ泥舟に乗っているかのような息苦しさに耐え切れず、もう彼らとつながっていることすら重荷で、すべてを断ち切りたくなってしまう。この腐りきった構造の中で、つながり続けること自体が泥沼のように思えてならない。 個人の営為など、押し寄せる構造的な巨大な潮流の前では砂粒ほどの意味すらないのかもしれない。私がライフスタイルを改め、声を上げようとも、巨大利権や構造的な怠惰の壁はびくともしないだろう。しかし、だからといってこの腐りきった諦めの同調圧力に屈し、思考を停止したゾンビの群れに加わることだけは、私の尊厳が許さない。地球そのものが人間の存在を自浄作用のように振り払おうとしている気配を感じる今日この頃、この猛烈な焦燥と深い孤立感を抱えながら歩み続けることの重みだけが、奇妙なほど鮮烈に、今日の輪郭を形作っている。

各地で起こる

  世界中で猛威を振るう大雨や台風、容赦ない熱波のニュースを見た。 画面の向こうで繰り返される異常気象の映像に、胸が重くなる。 結局のところ、これらはすべて自分たちが招いた結果だというのに。 根本的なあり方を変えようともせず、どうすればこの暑さや災害から「自分が快適に過ごせるか」ということばかりに目が向いている。便利な生活の代償として地球をすり減らしているという現実から、巧妙に目を背け続けているようにしか見えない。 人間とは、本当に業の深い、困った生命体だ。 このままでは、ただ自然を食い潰していくだけの存在になってしまうのではないかという焦りと、どうしようもない無力感が胸をよぎる。表面的な対策だけをいくら重ねても、根本を直そうとしない限り、本当の意味で自然との共存なんて訪れない気がしてならない。 このもどかしさを、ただやり過ごすだけではなく、何か形にして残していかなければいけない。