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救助

  今日、ふと「生命の救済」と「地球の未来」について深く考えさせられることがあった… 畜産業界から豚や牛を買い取り、サンクチュアリで保護してのびのびと暮らさせる活動をしている人たちがいる。目の前の命を救う姿勢やその優しさは理解できるし、尊いことだとは思う。だけど、どうしてもどこかで引っかかるものがある。 毎日、世界中では想像も絶する数の命が消費され、屠殺されている。そんな中で1頭の豚を救い出し、広々とした場所で暮らす姿を見て「良かった、救えた」と感動し、達成感に満たされる……それって、冷徹な目で見ればただの「人間のエゴ」や「自己満足」なんじゃないだろうか。 膨大な犠牲という暗闇には目をつむり、自分の手が届いた小さな「光」だけを見て満足している。しかも、そのサンクチュアリを維持するためにはお金がかかり、寄付を募り、資材や医療品を使う。だが、その資金や物資を生み出しているのは、他ならぬ地球環境に負荷をかけ、破壊を続けている人間社会の経済システムそのものだ。 医学で言えば、これはただの応急処置(対症療法)に過ぎない。 もし自分が一生という限られた時間やエネルギーを使うなら、1頭を救って感動する「自己満足のセラピー」に時間を費やすのではなく、地球規模の環境破壊や気候変動、生態系の崩壊そのものを止めるために「声を上げ、戦う時間」に注ぎ込むべきではないか。 土台である地球という船が沈みかけているのに、特定の部屋の水だけをバケツで汲み出して達成感に浸っている場合じゃない。全体を守らなければ、結局すべての命も生物多様性も潰えてしまうのだから。 「1頭の命への共感」という人間的な情緒に流されるのか、それとも「地球全体のシステム」という俯瞰した視点で本質的な行動をとるのか。全体像を見失わずに生きていきたいと、改めて強く感じた一日だった。

歴史的価値⁉️

  考古学における層序学(Stratigraphy)の基本すら忘れたような、滑稽な大騒ぎには失笑を禁じ得ない 古代の遺構からマイクロプラスチックが検出された件について、「文脈の喪失だ」「放射性炭素年代測定の精度が落ち、歴史的価値が損なわれる」と嘆く学者たちのメタ認知の低さには、心底うんざりだ。 彼らが本当に見落としているのは、まさに自分たちが生きる「人新世(Anthropocene)」という地質年代そのものです。 自らの過剰消費と環境負荷によって生物多様性を踏みにじり、地球システムを致命的に破壊し続けている当事者が、過去のタイムカプセルに現代の痕跡が混入した(Anthropogenic Contamination)程度で「歴史への冒涜だ」と被害者面をする。この認識の非対称性と構造的な自己欺瞞には、猛烈な拒絶感を覚える 数百年後、後世の知的生命体が地層を掘り返したときに目にするのは、あなた方が垂れ流した合成高分子化合物の地層——すなわち、現文明が地球に残した無残な敗北のレプリカです。 過去の地層の「純度」に固執してシニカルな涙を流す暇があるなら、自らが未来の層序に刻み込みつつある非可逆的な汚染という「負の遺産」の重みに、いい加減絶望しては? #人新世 #Anthropocene #マイクロプラスチック #層序学 #環境倫理 #社会批評 #認知の歪み

なぜかって…笑

  なぜ人類は、自らがこの惑星の生態系において「不必要な種」に過ぎないという自明の理を、頑なに受容しようとしないのだろうか。 無論、認めるはずもない。それこそが人間という種の業なのだから。過剰な自己弁護を繰り返しながら生態系を瓦解させていく、あまりにも不可逆な破壊者。地球上に存在するあらゆる生物種のなかで、最も存在価値を欠いた絶対的な異物なのだから。 奴らを見ていると吐き気すら覚える。「動物を愛そう」「命を守ろう」と声高に主張するその姿の、なんと滑稽なことか。 彼らが叫ぶ「保護」の対象など、所詮は自分たちの生活圏という矮小なフィルターを通した欺瞞に過ぎない。水族館や動物園、サーカス、あるいは商業目的で売買されるネットショップのショーケースの中――人間にとって都合よく消費される環境の中に置かれた生命だけを切り取り、愛でているだけなのだ。 自分たちの都合の良い領域にいる動物さえ保護していれば、その陰で地球全体を破壊し続けていても問題ないという、破綻した倫理観。自分たちの利便性やライフスタイルという名の「刃」には一切手を触れず、それを「正義感」と呼んで肯定する思考の浅薄さには辟易する。 性別論争や多様性の尊重といった内輪の理念が崩壊しようとも図々しく生存し続け、都合の悪い加害性からは徹底して目を背ける。結局のところ、自分たちが『地球を脅かす加害者』であるという冷徹な事実を直視したくないだけの、卑怯な保身に過ぎないのだ。 口先だけで生命を語り、その裏で自らの免罪符を消費し続ける人類は、真の意味で最も下等で無知な「戯言を吐く生物」以外の何物でもないクソだな

人類の事はどうでもいい

  ニュース画面に映し出された欧州の河川の姿が、頭から離れない。 ライン川やロワール川といった、絵画や歴史の本で何度も目にしてきた大河が干上がり、底の泥や干上がった川床が無残に露わになっている。宇宙から撮影した衛星写真で見ると、かつて青く豊かな筋を描いていた川筋が、まるでひび割れた大地のように細く掠れていた。 「猛暑と雨不足」。一見すると自然の気まぐれのように思える言葉だが、その根本にあるのは紛れもなく、私たち人類が積み重ねてきた環境負荷だ。 文明を築き、生活を便利にし、地球のどこへでもモノを運べるシステムを作り上げた。しかし、その豊かな暮らしを維持するために燃やし続けてきた化石燃料や、過剰な資源開発が、地球全体の気候システムを根底から揺さぶっている。アルプスの雪氷が減り、大気が停滞し、河川に水が戻らなくなる——私たちが「成長」の代償として排出し続けてきた温室効果ガスが、巡り巡って地球全体の循環を止めようとしているのだ。 恐ろしいのは、これが単なる「遠くの国の自然の悲鳴」では終わらない点だ。 川の水位が下がれば、物資を運ぶ船が動かせなくなる。発電所の冷却水が足りなくなり、エネルギーが不足する。農業用水が途絶え、食料の価格が跳ね上がる。人間が便利さを求めて地球に負荷をかけ、その結果として地球のシステムが壊れ、巡り巡って自分たちの社会インフラや生活そのものを締め上げていく。完璧なまでの自縄自縛だ。 日常の中で蛇口をひねれば当たり前に出てくる水や、スイッチを入れれば点く電気。そのひとつひとつの背景に、地球という巨大なシステムの恩恵があることを、私たちは普段どれだけ意識できているだろうか。 「環境問題」という言葉はどこか他人事に聞こえがちだが、今日見たあの干上がった川の姿は、人類が地球にかけてきた負荷の「請求書」が本格的に届き始めたことを物語っている気がする。個人にできることの小ささに途方に暮れつつも、まずは自分の足元にある消費やエネルギーの使い方を一歩ずつ見直さなければ、と強く思った一日だった。

  ふと気づけば、足元を歩く小さな蟻を毎日自然と避けて歩くようになっている。 庭の植物にたくさんのバッタが集まり、葉をかじっている光景を見ても、嫌悪感を抱くどころか「彼らも必死に生きているだけだ」と愛おしくすら思える。 蛇口をひねるときにも無意識に環境負荷を気にするようになり、電気も無駄に使わなくなった。自分の中の感覚は、確実に変わってきている。 だが、己の感覚が澄んでいくほどに、人間の「底のない欲深さ」に対する疑問と恐怖が深まっていく。なぜ人類は、ここまで貪欲になれるのだろうか。 自然を破壊し、他の生命を犠牲にしながら、人類はそれを「文明の進歩」や「経済成長」という心地よい言葉に置き換えてきた。動物を工業製品のように扱い、命を摂取し、搾取し続ける残酷なシステム。気候変動や地球温暖化によって生物多様性が崩壊し、海や森が死にかけている現実があっても、人間は巧妙に「自分たちに都合の良い解釈」を作り出し、罪悪感から逃れようとする。 「人間の方が優れているから」「仕方のない必要悪だから」「自分一人がやめても変わらないから」——。 そうやって心理的な逃げ道を作り、都合の悪い事実からは目を背け、自らの欲望を正当化する人間の心理状態に、恐ろしさと強い憤りを覚える。 数億年という途方もない時間をかけて紡がれてきた生命のバトンを、たったほんの少しの人間の欲望と、その身勝手な自己正当化によって踏みにじる。過去の恐竜絶滅などを経て、現在進行形で起きている「大量絶滅」の最大の元凶は、まさにこの人間の精神構造そのものにあるのだと思う。 科学を発展させ、豊かさを追求してきた代償として、他の生き物たちに背負わせている苦しみと悲しみはあまりにも膨大だ。 なぜこれほどまでに欲深く、都合よく現実を歪めてしまえるのか。その構造の全貌に思いを馳せるとき、胸の奥から湧き上がってくるのは、抑えようのない激しい怒りと、深く果てしない悲しみだけだった。 人間という種の一員である自分自身も含め、この歪んだ心理と罪深さに、私はどう抗い、どう生きていくべきなのだろうか。

歪み

 今日、改めてこの世界の歪みについて深く考えさせられた。ファストフードの添加物や安全基準の話から始まり、最後に行き着いたのは「すべては人間の都合で動いている」という冷酷な現実だった。国が定めた食品の安全基準も、海に流される汚染水の基準も、決して自然や他の生命を守るためのものではない。人間が経済を回し、便利な暮らしを維持するために「これくらいなら許容してもいいだろう」と勝手に線引きした、身勝手な妥協点にすぎない。それを「科学的に安全だから大丈夫」と言い切ってしまう社会の空気に、強い違和感と嫌悪感を覚える。私たちは、自分たちにとって不必要な生き物は「害獣」や「害虫」と呼んで簡単に駆除する。その一方で、人間が好む都合の良いものや、社会が「正しい」とする価値観は、幼い頃からテレビやインターネット、そして親を通じて頭に刷り込まれていく。そうして「これは安全なものだ」「これが正しい社会だ」と無批判に覚えさせられ、誰もが疑問を持たないようにコントロールされているのだ。地球環境の破壊も、気候変動も、生物多様性の崩壊も、原因はすべてそうした人間の欲望と無関心にある。自分たちの都合で森を切り拓いて住処を奪い、絶滅しかければ「保護」の名のもとに人工的に数を増やし、増えすぎたらまた殺す。この生殺与奪の権を握ったかのような人間の振る舞いは、あまりにも傲慢で矛盾に満ちている。人間は自然をコントロールできると思い込んでいるけれど、その結果が今のぐちゃぐちゃになった地球だ。誰かが作った都合のいい基準や、周囲から植え付けられた「安全」をただ鵜呑みにするのではなく、「そもそも誰のための基準なのか」を疑い、この傲慢な構造に目を向け続けることが、人間として最低限必要な姿勢なのだと思う。

お皿の上の思いやり

  アメリカやヨーロッパの小学校では、給食で「お肉や牛乳を出さない日」や「ヴィーガンの選択肢」が当たり前になりつつあるらしい。ニューヨークには金曜日に肉や乳製品を使わない「ヴィーガン・フライデー」があるし、最近は親のサインさえあれば自由な理由で植物性ミルクを選べる法改正も進んでいるそうだ。 私たちが子どもの頃は「みんなで同じものを残さず食べる」のが当たり前で、机には毎日牛乳が並んでいた。だから最初は「子どもが嫌がらないのかな?」と思ったけれど、今の代替肉はすごく美味しくて大人気らしい。背景には地球環境への配慮や、いろんな体質・宗教の子に対応するという目的がある。自分の考えや体に合わせて食べるものを自分で選ぶ海外のスタイルは、これからの時代に必要な優しさだなと感じた。 と同時に、「なぜ日本はこういう変化に遅れているんだろう?」と考えてしまった。 調べてみると、そこには日本の給食ならではの理由があるみたいだ。日本では給食が「みんなで同じものを食べて協調性を学ぶ教育(食育)」と位置づけられているから、「個人の意思で選ぶ」という発想になりにくい。それに、現場の手作りやアレルギー対策の負担が大きすぎて、選択肢を増やす余裕がないことや、酪農振興との兼ね合いで牛乳が必須になっていること、欧米ほど「環境のために肉を減らす」という意識が広がっていないことも影響しているらしい。 日本の給食の「安全で栄養満点」「みんなで食べる連帯感」も本当に素敵だと思う。でも、世界がこれだけ多様化しているのを見ると、これまでの「全員一律」にこだわりすぎるのもどうなのかな、と思ってしまう。