天秤
アスファルトの隙間を懸命に歩く、あの小さなありんこの命と
水族館のガラス越しに賢い瞳を向ける、あのイルカの命と
スーパーマーケットの冷たい棚に、値札を貼られて並ぶ幾千もの魚たちの命
そのどれ一つを取ってみても、血が通い、痛みを知り、ただ生きようとしていたという事実において、本来、優劣などあるはずがない。
もちろん、私にだってイルカと魚の違いは分かっている。
片や温かい血を通わせ、子を乳で育てる哺乳類であり、片や水の中に潜み、えらで息をする生き物。
けれど、そんな「哺乳類」だの「魚類」だのという区別すらも、人間が自分たちの理解のために勝手に名前をつけ、分類しただけの都合にすぎない。
どんな言葉で括られようと、どんな図鑑のページに分けられようと、生きようとしている「命」という天秤の上に置かれたその重さは、最初から何ひとつ変わらないのだから。
イルカは知能が高いと言われている。
けれど、知能が高いからという理由だけで、命の天秤を傾けてしまっていいのだろうか。
では、スーパーに並ぶ魚たちはどうだろう。
彼らはショーに出て歓声を浴びることもなければ、芸を教え込まれることもない。
ただ、群れをなし、暗い海の中で一分一秒を懸命に生き、泳いでいただけなのだ。
それなのに、ある日突然、大きな網にからめ取られ、刃を立てられ、皿の上に並べられる。
イルカの悲劇も、魚たちの辿る運命も、命の視点に立てばどちらも変わりなどないはずだ。
誤解しないでほしい。私はイルカが可哀想ではないと言いたいわけではない。
ただ、すべての命を真に「平等」として見つめ直したとき、見えてくる根本的な事実がある。
それは、人間という生き物の勝手な「欲望」と「性質」だ。
人は、自分と同じように目や鼻や口があり、自分たちの形に似たもの、幼い頃から見慣れた愛らしいもの、人に懐くものには、自ずと関心を寄せ、深い情を傾ける。
けれど、遠く離れた冷たい海の底で生きる存在に対しては、はじめから「食べ物」という認識のラベルを貼ってしまう。
自分に近い形のものには愛を注ぎ、遠い存在は食材として割り切る――それこそが、人類の歪んだ境界線なのだ。
テレビのニュース画面に映し出されたイルカの追い込み漁。
その残酷さに胸を痛め、涙を流し、「やめさせるべきだ」と声を大にして叫ぶ人たちがいる。
その純粋な正義感や、傷つく命を守りたいという優しさが偽物だとは言わない。
痛みに共感する心があるからこそ、彼らは傷つき、立ち上がっているのだから。
けれど、その同じ手が、帰りのスーパーのレジ袋から夕食の切り身を取り出すとき、
そこにあるはずだった命の重みは、綺麗にパックされた「食材」という透明な膜の向こう側へと、綺麗に切り離されていく。
「食べるためだから」「昔からの産業だから」「魚には表情がないから」
人間が罪悪感を忘れるためにこしらえた無数の言い訳を、私たちはまるで免罪符のようにポケットに忍ばせている。
知性があるから、人間に似ているから、愛らしいから守る。
数が多すぎて見えないから、ただの食糧だから、名前すらないから見過ごす。
そんな身勝手な基準で命の天秤を勝手に傾け、重さを測り続けてきたのは、他でもない私たち人類だ。
地球という同じ星に生まれ、同じように限られた時間を生きているはずの命たちを、
自分たちの経済のため、娯楽のため、あるいは「直視したくない残酷さ」から目を背けるために、
守るものと、使い捨てるものに分断して平然としている。
その矛盾に気づきながらも、見て見ぬふりをして日々の暮らしを回していく私たち人間という生き物は、
なんて強欲で、なんて自己中心的で、そしてなんて哀しい存在なのだろう。
道端の小さな虫の死骸をまたぎ、ショーの終わったプールの底を見つめ、夕暮れの食卓に並ぶ血の通っていた過去を飲み込みながら、
私たちは一体いつまで、この都合の良すぎる天秤を抱えたまま、地球の王様のような顔をして歩き続けるのだろうか。
答えの出ない問いだけが、冷たい風に吹かれて、静かに夜の闇の中へ溶けていく。
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